cutting edge
スポンサーサイト
--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
資源小国の挑戦 第2章 原発再考(3) 六ヶ所村の選択
2006年03月27日
 三沢空港から車で約1時間。下北半島の付け根に位置する青森県六ケ所村の原野には、東京ドーム160個分という広大な敷地が広がる。

 電力各社が出資する日本原燃の原子燃料サイクル施設。ここは日本の原発事業に欠くことのできない一大拠点だ。現在はウラン燃料の濃縮や低レベル放射性廃棄物の最終処分などを受け持つが、新たな役割が近く加わる。国内初の商業用核燃料の再処理プラントの本格創業に向け、いよいよ最終試験に着手する。

 原発で発生する使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、原発の燃料として再び利用する核燃料サイクル。エネルギー資源に乏しい日本が原子力政策の基本としている核燃料サイクルの実現は、この六ケ所村の存在を抜きには考えられない。


 六ケ所村が再処理を含めた核燃料サイクル施設の受け入れを決めたのは昭和60年4月。六ケ所村は当時、窮地にあった。政府の「新全国総合開発計画」(新全総)をきっかけにした「むつ小川原開発」に伴う大規模な工業開発に村の発展をかけていた。だが、石油精製を基幹事業とした当初計画はオイルショックで頓挫。それに代わる産業の誘致が思うように進んでいなかったのだ。

 この用地に目をつけたのが核燃サイクル施設の建設場所を探していた電力業界だった。広大な土地があり、使用済み燃料を運び込むための港も整備されている。漁業補償も終わっていた。「『来てください』といっているように見えた」。当時を知る電力業界関係者はこう振り返る。

 だが、核燃施設の受け入れを決めた後も六ケ所村は大きく揺れた。受け入れ賛成派と反対派に村が二分され、両派は村長選のたびに激しい戦いを繰り返した。漁業が盛んだった泊地区では特に反対する声が強かった。施設建設のため、調査船が入港しようとすると、地元の漁船が航行を妨害するなど、反対運動の激しさは「泊沖海戦」と呼ばれるほどだった。

 受け入れを決めた胡古川伊勢松村長はその泊地区の出身だったが、5選を目指した平成元年の村長選で落選。代わりに当選したのは、核燃に慎重な方針を打ち出した土田浩さんだった。

 土田さんはもともと村議として核燃施設の必要性を訴えていた。村長選の際も、村として一連の施設建設を阻止できるとは思っていなかったという。だが、できる限り安全を確保すべきだとの立場から、「村民の75%が賛成しなければ、安全協定は結ばない」との選挙公約を掲げて当選した。

 村長就任後、土田さんは泊地区に連日のように通い、反対派の住民との話し合いを重ね、理解を求めていった。結局、六ケ所村がウラン濃縮施設の安全協定を結んだのは平成3年7月。電力業界はようやく六ケ所村の核燃施設を稼動する条件を整えた。


 「陸の孤島」。かつて六ケ所村は、こう呼ばれていた。

 だが、青森県の調査によると、平成15年度における六ケ所村の一人当たり住民所得は283万5千円で、県内市町村で5年連続でトップ。財政基盤の弱い自治体に配分される地方交付税の交付も受けておらず、現時点で県内唯一の不交付自治体でもある。

 「財政面だけでなく、働く場があるので若い人が住むようになった。村は自立できる状況になっている」。古川伊勢松さんの実弟でもある現在の古川建治村長がこう話すように、核燃施設の立地によって電源三法交付金や、雇用の場を確保した六ケ所村は豊かになった。核燃施設の是非は今では村長選の争点にはならなくなっている。

 むつ小川原開発で国策のぶれに翻弄され、村を二分する争いになりながらも、原子力施設との共生を決断した六ケ所村。その選択に報いるには、再処理を軌道に乗せ、核燃料サイクルを成功させる以外にない。再処理の最終試験は17ヶ月に及ぶ。順調に行けば、平成19年夏から本格操業が始まることになる。

2006年3月27日 産経新聞特集
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL :
コメント :
パスワード :
秘密 : 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
/ Template by sukechan [ laughing cat custom version ]
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。